昭和5(1930)年7月、中河内郡楠根村大字稲田の地に「愛和幼稚園」は開園した。
まわりを畑や水田に囲まれ、東側には屏風型に広がる生駒連峰の姿が、西側にはかぼちゃ畑を隔てて黒煙を吐いてのんびり走る片町線の汽車が望めた。
まわりを畑や水田に囲まれ、東側には屏風型に広がる生駒連峰の姿が、西側にはかぼちゃ畑を隔てて黒煙を吐いてのんびり走る片町線の汽車が望めた。
徳庵愛和幼稚園 略年譜
1930(S. 5). 7.
| 成尾健蓮 愛和幼稚園創立
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1930(S. 5).11.
| 大阪府の認可を受ける
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1931(S. 6). 7.
| 木造園舎を新築
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1943(S.18). 8.
| 大阪府の認可を受ける(徳庵愛和幼稚園)
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1945(S.20). 7.
| 戦況により一学期終了後、休園
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1946(S.21). 4.
| 終戦により保育再開
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1951(S.26).12.
| 園地拡張、木造園舎新築
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1952(S.27). 4.
| 学校法人徳庵学園設立(理事長 成尾健蓮)
大阪府の認可受ける |
1953(S.28). 4.
| 後援会 愛和会発足 (初代会長 土岐淳一氏)
|
1961(S.36).
| 理事長 成尾健蓮 大阪府知事表彰
(私学振興功労)受賞 |
1961(S.36). 6.
| 成尾健蓮 園長を辞し 成尾佳之 園長就任
|
1962(S.37).
| スクールバス導入
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1965(S.40). 1.
| 後援会 親和会発足(初代会長 寺浦実氏)
|
1970(S.45). 6.
| 理事長 成尾健蓮 藍綬褒章受章(教育振興)
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1975(S.50).
| 理事長 成尾健蓮 法務大臣表彰(保護司)
|
1976(S.51).
| 理事長 成尾健蓮 厚生大臣表彰(民生委員)
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1977(S.52). 4.
| 理事長 成尾健蓮 勲五等瑞宝章受章
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1980(S.55). 4.
| 成尾健蓮 理事長を辞し 成尾佳之就任
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1985(S.60).11.
| 理事長 成尾佳之 大阪府知事表彰
(私学振興功労)受賞 |
1987(S.62). 7.
| 延長保育(預かり保育) 実施
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1990(H. 2).12.
| 創立者 成尾健蓮 逝去
|
1991(H. 3).10.
| 理事長 成尾佳之 文部大臣表彰受賞
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1998(H.10). 4.
| 成尾佳之 園長を辞し 成尾嘉暢 園長就任
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2000(H.12). 5.
| 理事長 成尾佳之 藍綬褒章受章(教育振興)
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2001(H.13). 7.
| 理事長 成尾佳之 逝去
従六位叙位及び勲五等雙光旭日章受章 |
2002(H.14). 1.
| 成尾嘉暢 理事長就任
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2005(H.17). 5.
| 園地拡張(東側)
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2009(H.21). 5.
| 園地拡張(西側)
|
2019(R. 1).
| 園舎全面改築工事
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愛和寫眞舘
昭和5年創立
「愛和」の
歴史を物語る
昔々の写真を
展示しています。
↓↓↓
徳庵愛和幼稚園 沿革
愛和創立よもやま話
本園の開園に先立つ大正末年頃から、成尾健蓮は自坊「転輪寺」(当時説教所)で、託児所を開き、賛仏歌を通して歌の楽しさ、仏教説話などを通して道徳的な教えなどを子どもたちに伝え始めていた。
時を重ねるに連れ、幼児教育の重要性を痛感するとともに、周囲の協力者たちの助言などもあり、幼稚園の創立を決意する。開園前後、幼児教育の先輩園に教えを請うて回り、多くの指導を受けたが、中には、「ベテランの園長先生が親切にアドバイスして下さった。が、何分にも 女中さんに送り迎えしてもらっている船場のぼんぼん、こいさんの園と、田舎の仮園舎で汲々としている園では格差が甚だしく、見学しても、教えられても、直ちに参考にはならなかった」(成尾健蓮談)こともあったようである。
時を重ねるに連れ、幼児教育の重要性を痛感するとともに、周囲の協力者たちの助言などもあり、幼稚園の創立を決意する。開園前後、幼児教育の先輩園に教えを請うて回り、多くの指導を受けたが、中には、「ベテランの園長先生が親切にアドバイスして下さった。が、何分にも 女中さんに送り迎えしてもらっている船場のぼんぼん、こいさんの園と、田舎の仮園舎で汲々としている園では格差が甚だしく、見学しても、教えられても、直ちに参考にはならなかった」(成尾健蓮談)こともあったようである。
子どもたちにとって最も大切な存在である「先生」は、経験豊かな有資格者保姆を神戸から迎えるなどして、昭和5年7月 「愛和幼稚園」はスタートした。 そして間もない同5年11月に託児施設として大阪府の認可を得る。
当初の施設はお寺の本堂と北接の急造保育室、それに南側の空き地を運動場とした、粗末なものであったが、地元の方々の支援などにより、愛和は軌道に乗ることができた。特に保育後援会(保護者会と後援会を併せた組織)の初代会長(泉 藤三郎氏)をはじめとする役員方には戦争初期までの十余年に亘って「幼稚園のおじちゃん」として親しく園児に接し、本園教育の振興にご尽力いただいた。
戦前、本園周辺5キロメートル以内には、保育施設らしいものは全くなく、そのため子どもたちの通園してくる区域は、年々拡がっていった。南は川俣・西堤、北は茨田浜・安田・横堤などから、また電車を利用し登園する者は西は放出、東は野崎、鴻池から、親の付き添いもなく単独で通園していた。
昭和9年9月の第一室戸台風では、園舎一棟が倒壊し、屋根瓦、スレートの飛散は軒並みといった被害を受ける。
昭和12年に日中戦争が、同16年に太平洋戦争が始まり、世の空気が次第に戦争に染まり、本土にも米艦載機の奇襲が繰り返されるに及んで、学童は集団疎開となり、本園も同20年7月30日休園を決定。
爆撃機の来襲は厳しさを増し、本地域にも焼夷弾の雨が降った。本園では4カ所から出火したが、大事には至らなかった。
爆撃機の来襲は厳しさを増し、本地域にも焼夷弾の雨が降った。本園では4カ所から出火したが、大事には至らなかった。
前後する昭和18年8月、本園は「徳庵愛和幼稚園」として大阪府の認可を得る。
終戦後、いち早く保育を再開し、園地拡張を行うとともに木造園舎を新築するなど保育環境の整備に努める。
成尾健蓮は後年、園行事の中でも時の流れを特に感じさせるのは園外保育、遠足の想い出だと述懐したことがある。
盾津の飛行場跡へ弁当持参で出かけると、声高くひばりが囀り、行く道端には野の草花が咲き続け、道すがら傍らの水路をのぞき込んでは、メダカやドジョウ捕りに興じる。やがて到着した所は、見渡す限りのれんげ草の絨毯を敷き詰めた広場であり、跳ねて叫んでも障害物は何もない大自然に溶け込める子どもの楽園であった。当時の履き物といえば下駄か草履であり、先生は切れた鼻緒の直しまでしていた、と。
昭和22年3月公布の学校教育法により幼稚園は学校教育の一環となり、「保姆」の名称は「教諭」となった。昭和24年12月公布の私立学校法に則って、学校法人徳庵学園(理事長 成尾健蓮)を設立し、27年4月大阪府の認可を得る。
学校法人立となった本園を支援すべく、昭和28年に後援会「愛和会」(会長 土岐淳一氏)を発足いただく。
学校法人立となった本園を支援すべく、昭和28年に後援会「愛和会」(会長 土岐淳一氏)を発足いただく。
昭和36年成尾健蓮から園長職を引き継いだ成尾佳之は、当時まだ目新しかった通園バスを早速導入し、木造園舎を鉄筋に改築するなど今日的な幼稚園の在り方を先取りする。
「愛和会」は昭和40年、新たな後援会として「親和会」(会長 寺浦実氏)に変わる。
昭和55年 成尾健蓮、理事長を辞し、成尾佳之が就任。平成2年12月2日、創立者 成尾健蓮 逝去。
昭和初期に誕生した本園は 平成の時代を経て、令和となった今日も新たな歴史を刻み続けています。